志の響き合いふたたび 「井上勝」と「佐藤政養」

井上勝顕彰行事は、山形県遊佐町で毎年行われている「政養祭」を範としている。

いつの日か、我が国の鉄道発展の礎を築いた遊佐町が誇る「鉄道の助 佐藤政養」と山口県の「鉄道の頭 井上勝」が連携し合い、それぞれの地域の活性化と「鉄道を通じての存在感」の全国へのアピールを何らかの形で“コラボ”し、実現できたらと考えている。

鉄道の日の「井上勝」顕彰行事に届けられた、初代鉄道の助「佐藤政養先生顕彰会」会長からのメッセージを紹介させていただくとともに、この場を借りてお礼と引き続きの御協力をよろしくお願い申し上げます。

メッセージ

鉄道の日の本日、鉄道の父「井上勝」顕彰行事が関係する皆様のご尽力により開催されますこと誠におめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。

激動の幕末から明治、井上勝先生は日本の近代国家建設のため遠くイギリスに渡り、大学に通う傍ら見聞をひろめ鉄道の重要性を痛感し帰国されました。「吾が生涯は鉄道を以て始まり」の言葉のとおり高い志を持ってその情熱を鉄道敷設に傾注されました。ここに、改めて井上勝先生の進取の精神とたゆまぬ実行力に敬意を表します。

わが遊佐町の出身であります佐藤政養は勝海舟のもとで近代技術を修めたのでありますが、井上勝先生の志と響きあい、そのもとで鉄道開設という日本の大事業に邁進することとなったのであります。

鉄道の父「井上勝先生」の偉業を顕彰するために記念イベントを実施するなどこれまでの取り組みに関係者皆様の思いが伝わって参りますし、本日の日本鉄道の父「井上勝」顕彰行事を契機にさらにこの思いが多くの方に伝わりますことをご祈念いたします。

鉄道開設から137年を経て、鉄道頭「井上勝先生」と鉄道助「佐藤政養」が遺した大きな足跡が結び合わせたこのご縁を大事にしながら互いに交流を深めていきますとともに、鉄道の父「井上勝」顕彰行事のご発展とご関係者の皆様のご健勝をご祈念をいたしましてお祝のメッセージといたします。

平成21年10月14日

              初代鉄道の助佐藤政養先生顕彰会会長

                     遊佐町長  時田 博機

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鉄道を愛し、鉄道と共にこの世を生きた曾祖父  「井上勝」

鉄道の日の「井上勝」顕彰行事に届けられた勝重さんからのメッセージは、実に心がこもったものであり、参加者一同は、人間味あふれる井上勝の一端に触れることができた。

ここに紹介させていただくとともに、この場を借りてお礼を申し上げます。

『井上 勝 を顕彰する会』に参集された皆様へ

この度、井上勝が一時期生活していた小鯖におきまして、ノムラン会をはじめとした有志の方々により、「井上勝を顕彰する会」が開催されるとのご一報を頂きました。本来であればそちらに赴き、ご挨拶・御礼を申し上げるべきところ、所用のため訪れることができませんことをお許し下さい。

残念ながら私たち子孫は、資料の多くを戦火により失い、井上勝の当時の面影をたどることが困難となってしまいました。しかし幸いなことに、折りにふれ、幕末から明治にかけて研究されている皆様にお教えを頂く機会が多くございました。樫部様からも、井上勝が幕末この小鯖に一時転居していたことを伺い、空白となっていた時期の事を知ることができました。

来年は井上勝没後百年という節目の年を迎え、皆様があらためて井上勝を取り上げてくださるとのこと、子孫である私どもは大変嬉しく思います。井上勝旧宅跡にお住まいの原田様には、居住していた土地を大切にお守り頂き、心より感謝申し上げます。

井上勝は派手な性格ではなく、あまり人前に出ることは好まなかったと聞いております。現場第一主義と申しますか、鉄道建設現場に出向くことが多く、家には不在がちであったため、家族、特に娘からの父親としての評判はあまりいいものではなかったようです。私が幼少のころ井上勝の長女である大叔母に会った際も、大叔母からはあまり話を聞くことができず、井上勝の人となりを知ることができませんでした。しかし家族を愛し、仲間や鉄道に携わってくださった人夫の方々とのふれあいを大切にしていたことに間違いはないでしょう。鉄道を愛し、鉄道と共にこの世を生きた井上勝を顕彰してくださることを、子孫として大変嬉しく思い、重ねて感謝申し上げます。私も折りを見つけ、井上勝ゆかりの地を訪ね歩きたいと思っております。

末筆ながら、ノムラン会を始めここにご参集下さいました皆様方のますますのご発展、ご健勝を心よりお祈り申し上げます。

                                                           井上 勝重

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.10.14-井上勝没後99年の鉄道の日

平成211014日-今年の鉄道の日には、大きな意味があった。東海道線全線開通120年。さらに、来年の井上勝没後100年のプレの年。

そんなわけで、今回の鉄道の日の「井上勝」顕彰行事は、勝が父・勝行と一時期暮らしていた(はず)と言われる、山口市小鯖芦谷で開催された。ノムラン会と、地元小鯖第8区の「豊寿会」の皆さん、そして、山口大学経済学部観光政策学科の「朝日幸代ゼミ」との共催だ。また、地元の重宗紀彦県議会議員、JR新山口駅の上原副駅長、“井上勝の挑戦”制作プロデューサーの入江正敏さんなど多彩な顔ぶれも揃った。

Syukusyou2  

いつか、こうした形で行いたいと思い続けて、足かけ3年。この間、井上家が東京に出る際に、土地などを託された原田家の原田節子さんや豊寿会の徳本巌さんとともに、何度も旧宅跡を探し歩いたり、顕彰行事の参考にしたいと、遠くは、山形県遊佐町に教えを請いにも行った。そして、ついには、小鯖の小学校で井上勝の講義にも挑戦した。井上勝という人物を知ってもらい、地域づくりにつなげていこうという動きを、少しずつではあるが積み重ねてきたノムラン会会長。だから、行政やJRの主催ではなく、地域の人たちによる手作りのイベントに感慨もひとしおだったようだ。

思いもかけない大雨に見舞われ、会場が旧宅の跡地から公民館へと変更となるハプニングもあったが、格式張ったイベントではないので、いつものとおり、“どうにかなるさ”で切り抜け。

うれしいことに、井上勝のひ孫の勝重さん、山形県遊佐町長(初代鉄道の助「佐藤政養先生顕彰会」会長)、JR新山口駅の多和駅長さんから、お祝いのメッセージをいただいた。また、昨年に引き続き、山大学経済学部観光政策学科の朝日ゼミの学生さんたちが、鉄道による観光振興策の発表をしてくれた。

Syukusyou1  

和気藹々の中で、無事にイベントは終了。「来年もやろう。そして、東京駅に井上勝の銅像が戻ってきた暁には、東京に行って、銅像の前で顕彰イベントをやろう。」とみんなで誓い合ったのであった。もちろん、ノムラン会会長がますますヒートアップしたことは言うまでもない。

Kaijyou

「林道芦谷線」-この道を進んだところに井上勝行邸はあったと言われ、イベントの会場となる予定であった。当日は、きれいに草刈されていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛すべき、我らがノムラン

Img_1752_2先日、コメントを寄せてくださった中村建治さん著の「東海道線誕生物語~鉄道の父・井上勝の生涯」(イカロス出版)をシルバーウィーク中に読破。タイトルの通り、日本の大動脈「東海道線」の誕生までのプロセスと、その建設にひたむきに取り組んだ、我が郷土の先輩、ノムランこと「井上勝」の生涯を追った力作。120年以上も前の明治時代に思いを馳せながら一気に読み終えてしまった。

東海道線の建設に当たっては、東海道ルートか中山道ルートかで、紆余曲折があったことは知っていた。しかし、中山道ルートで計画されようとしていたものを東海道ルートに変更するに当たっては、最終的には、勝の勇断、そして決める以上は何としても押し通すという強い信念があったということが分かった。しかも、この決定には、山県有朋、伊藤博文という、同じく郷土の先輩が大きく関わっているというもの興味深い。

また、東京~京都~神戸間がつながった当初は、琵琶湖では、鉄道連絡船で乗り継いでいたとは。赤字覚悟で、その連絡船の運行を引き受けたのは、これまた長州人の藤田伝三郎。

現場主義に徹した数々のエピソード、大切な鉄道開業の日には、なぜか大雨等に見舞われ、それをボヤいていたという人間味あふれる一面に触れると、勝が身近に思えてくる。

---「愛すべき、我らがノムラン」

この本には、ノムラン会会長が先日行った大津駅の話も、当然登場しており、大津駅の初代駅長は、高橋善一。初代の長浜駅長にもなったと書いてある。

さて、もうすぐ鉄道の日。来年の勝没後100年を前に、今年も、何か一発やりますか?会長!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

勝、吹浦駅に降り立つ。

10月14日、山口大学で行われた若者たちによる「鉄道の日」ミニ研修会の1時間後、「湧水の里」山形県の遊佐町では、地元の人や関係者が見守る中、恒例の佐藤政養祭が行われた。場所は、もちろん、吹浦(ふくら)駅の「佐藤政養像」前。

この記念祭で、今年は、わがノムラン会からのメッセージが読み上げられた。国内初の鉄道建設にともに力を合わせた、鉄道の助「佐藤政養」と鉄道の頭「井上勝」の130年ぶりの再会だ。

その様子は、ありがたいことに、遊佐町のホームページに掲Hp_2載されており、遊佐と山口の友好を深め、鉄道の祖の功績を讃える一日となったとある。(トップページの右サイドバーにある「広報取材日記」をクリック)

写真を見ると、遊佐も秋晴れ。新しい記念日を祝うかのように。

ノムラン会代表が心を込めて送ったメッセージの全文は、こちら。「zenbun.pdf」をダウンロード 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

長州27~若者たちの「鉄道の日」

午前中のどんよりとした空模様がウソのよう。”鉄道の日”日和の中、山口大学の長州五傑の碑の前で、予定通り、「鉄道の日」ミニイベントが開催された。 Photo_4  

山口大学は本当に素晴らしいロケーションにある大学だ。緑豊かでのびのびとした雰囲気。まさに、大学の理念「発見し・はぐくみ・かたちにする 知の広場」そのものだ。そして、学生たちも素晴らしい。

イベントは、観光政策学科の学生の研修会という形で行われ、1年生が、山口の観光振興についての自分たちの考えを披露、先輩の4年生がその講評を行うというもの。

「私たち自身が山口県の良さや観光資源の素晴らしさをよく理解することが大切」「山口県は観光資源が豊富すぎて、逆に、これといったものを際立たせることができていない。」「湯田温泉に温泉パスポートを導入したり、スタンプラリーを実施してみたら?」---どれも、なるほどなと思わせる提案ばかりだ。何よりも、学生たちの真剣なまなざしに深い感動を覚えた。

地域の観光振興のためにまず必要なものは、そこに暮らす人たちが、”このまちをもっと魅力あるものにしたい””このまちの良さをもっと多くの人に知ってもらいたい”という熱い思いを持つことなんだということを再認識した。

山口大学のみなさん、山口県には自慢の観光資源がたくさんあるけど、みなさんこそが宝ですよ!われわれ大人もみなさんに負けないよう、情熱を持ち続けて頑張ります。

Photo_5

| | コメント (1) | トラックバック (0)

10月14日は鉄道の日

約半年ぶりの記事。半年御無沙汰の編集長をお許しあれ!アクセス解析で、この間も多くのアクセスをいただいたことを知り、すっかり恐縮するとともに、ノムラン会員の結束の強さをあらためて痛感。

さて、10月14日の鉄道の日、山形県遊佐町と山口県山口市で記念イベントが開催される。

山形県遊佐町と言えば、もう一人の鉄道の父「佐藤政養」の出身地。ノムラン会広報部長とともに訪れ、小野寺町長さんはじめ、地元の方々の温かいもてなしに、「遊佐えがった、えがった」と大感激したのは、今年の2月のこと。

14日には、恒例の初代鉄道助佐藤政養先生の顕彰記念祭、第45回政養祭が開催され、小野寺町長さんの御配慮で、ノムラン会もメッセージという形で参加できることになった。100年以上の時空を越えて、佐藤政養と井上勝が再会する記念の日となりそうだ。

Img_0533_2 こちら山口県でもミニイベントが予定されている。場所は、山口大学の「長州五傑記念碑」広場、時間は12時10分から30分間。(正門入って30m過ぎて右)

山口大学経済学部観光政策学科の学生さんたちが、山口県の観光振興と「井上勝」「SLやまぐち号」について熱く語ってくれるという。例によって、ノムラン会代表(注:ノムラン会広報部長はノムラン会業務に専念できる環境となり、晴れて代表に就任。おかげで会員も大幅に拡大した。)の思いつき企画であるが、ぶっつけ本番でもそれなりのものになるのが、神業とも言えるこの人の力。

天気が悪かったらどうするんだろう?という心配は残るが、ノムラン会会員のみなさん、14日のお昼は、集え!山口大学に。       

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008「SLやまぐち号」スタート!!

Dsc_0052_2 笑顔、笑顔、笑顔。SLを前にすると誰もの顔がほころんでしまう。それがSLの魔力だ。

3月22日、C571号が4月ぶりに雄姿を見せ、今年の「SLやまぐち号」運行がスタートした。

この日を待ちわびた大勢の人々に囲まれて、新山口駅1番ホームで行われた出発式では、湯田温泉の旅館の女将さんと山口大学の学生さん二人による「お出迎宣言」が行われた。Dsc_0036_2  今年7月~9月まで、山口県内で実施される「おいでませ山口デスティネーションキャンペーン」を盛り上げようというもので、今年の幕開けを艶やかに飾ってくれた。

Dsc_00702_3今回、初披露となったのが、記念撮影用パネル。山口が生んだ鉄道の父「井上勝」とSLやまぐち号をモチーフにしたもので、昔ながらのアトラクション(?)。でも、これが、子どもたちに大ウケで、ミニ勝が、次々に誕生していた。Dsc_00762_4

このパネル、出張サービスもされるそうで、いろいろなイベントで活躍しそうだ。

今年のSLやまぐち号は、デスティネーションキャンペーン期間中に走るC56と客車2両による臨時列車「SLやまぐちDC号」も併せると、129日間の運行。期間中の無事運行を祈りたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

阿久悠とSLやまぐち号

時代の語り部、作詞家の阿久悠氏が70歳でこの世を去ったのは、昨年の8月1日。奇しくもこの日は、SLやまぐち号C571製造70周年展オープニングセレモニーの日であった。

その阿久悠氏とC571のツーショット写真が3月号の「大人のウォーカー」に掲載されている。角川クロスメディア発行のこの雑誌で、山下真司さんと行く冬の山口市として4ページにわたり、山口市の見所、湯田温泉の味どころなどが紹介されているというので、読んでいたら、別コーナーでその写真を見つけた。「阿久悠と昭和を旅する」と題した特集のはじめに、車掌姿でC571に乗り込み、無邪気に笑っている阿久悠氏の姿が。キャプションには、「仕事で訪れた山口県萩で撮影したお茶目な一枚」とある。「ん?萩?」と素朴な疑問が生じるところではあるが、貴重な一枚。

携帯の着信音は「街の灯り」、「あの鐘を鳴らすのはあなた」をカラオケの18番としている阿久悠ファンの私にとっても、意外で嬉しい発見となった。”そばにだれかいないと しずみそうなこの胸 まるで潮が引いたあとの 暗い海のように””やさしさや いたわりや ふれあう事を 信じたい心が 戻ってくる”‐‐‐当時若かりし私は、怖い顔して、なんて温かい歌詞を書く人だろうと驚いたものだ。切なさ、ぬくもり、希望などが入り交じった阿久悠氏の歌詞は、私には人間賛歌にも思えた。

阿久悠氏と言えば、スポニチに掲載されていた「甲子園の詩」も印象に残る。2005年夏には、「・・・宇部商の諸君 出しつくしてしまうのは尊い勲章なのだ 時には勝利より光ることがあり 出しそびれたままに敗れたことと比べると百倍の価値をもつ・・・」と、準決勝で力尽きた宇部商の健闘を讃えてくれた。

また、2003年夏、春夏連覇を狙う広陵の夢をうち砕き勝利した岩国高校に対しては、「・・・不動の9人は約束された9人ではなく すべてを自分たちで解決するそういう9人だと この熱戦で証明した 諦めなければ 運命はかわる 運命が変われば 未来が見える・・・」と、人生の応援歌ともいえる言葉を贈ってくれた。

さて、春の選抜には「下関商業高校」と「華陵高校」の2校が山口県代表として出場する。僭越ながら、私も、阿久悠のまなざしをもって応援したいと今考えている。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

小岩井農場の「井」は井上勝の「井」

東北地方に足を踏み入れたからには、井上勝ゆかりの「小岩井農場」の地を踏まずには帰れない。遊佐訪問の翌日の2月5日、岩手県の小岩井農場へ向かった。吹浦駅から秋田駅まで行き、そこから秋田新幹線で約1時間半で盛岡駅に到着。さらに車で30分程度の雫石に小岩井農場はある。

”雪が多くてたどり着けないんじゃないか””いやそもそも冬期は閉鎖しているんじゃないか”というガセネタに脅えながらも突撃。小岩井農場は「岩手雪まつり」のまっ最中で、かなり人がいた。メインスポットまきば園も、オフシーズンは入園無料である。

Iriguti標高2,038メートルの岩手県最高峰の岩手山をバックにした広大な銀世界は実に美しい。緑の草原と動物たちが戯れる春から夏の光景もきっとすばらしいに違いない。この地に農場をつくろうと考えた、井上勝の気持ちがよくわかった。が、やはり、少し寒い。

小岩井農場は、明治24年に、野義真(日本鉄道会社副社長)、崎彌之助(三菱社長)、そして、鉄道庁長官の上勝の三人の手で開設された。鉄道局長時代、視察に訪れた井上勝が、当時の県知事に「これまで鉄道開発のために田畑をつぶしてきた埋め合わせとして、この広大な荒地を開墾して農場をつくりたい」と打ち明けたことが発端となったという。まきば園のパンフレットには「開設者」の一人として井上勝も紹介されていた。

レンガサイロなど創業時の面影が残る上丸牛舎の一画に、展示資料館があった。この建Img_1353物は、明治39年建築の事務所を改築したもので、創業者の理想や百年Tennji_2以上のこの農場での生産の営みが紹介されている。もちろん「井上勝」の展示もあった。

少し離れた管理本部を訪れ、展示資料館の館長に話を聞く。館長の野沢さんは、TYS入江さん制作の「日本鉄道の父 井上勝の挑戦!」にも登場していた方。鉄道農場の開設は3人の手によるが、場主は井上勝だったそうだ。岩崎からは、年1万円、10年間出資を受けるという約束であったが、思っImg_1374 たような利益が出ず、8年で岩崎家に手渡したということだ。もっとも、岩崎家は出資金をどうこう言うつもりはなかったようだが、勝の実直な性格がそうさせたのだろう。

勝は耕作中心の経営を行っていたようだ。昭和32年に岩崎家の久彌が農場を継承してからは、酪農へと移したという。後で入手した情報だが、その実質的な運営を任されたのは、下総御料牧場長であった新山荘輔で、彼もまた山口県出身。小岩井農場と山口県のつながりは、かなり深いのだ。Img_1373

経営から手を引いた後も、勝は農場を何度も訪れている。明治41年に皇太子殿下をお迎えするために農場を訪れたという記録があり、これが最後の訪問だったのではないかと野沢館長。その年は、山口県にも来ており、2年後にロンドンで亡くなる前に、奇しくも思い出深い各地を訪れていたということか。

何か小さいことでもいいから、小岩井農場と山口県のタイアップができないものか。展示資料館では、4月から9月まで「百年前の小岩井農場」という企画展が開催されるようだし、そのタイミングで山口県からも何か発信できたらとも思う。

ちなみに、まきば園の売店には乳製品をはじめ、多彩な小岩井ブランドの品々があり、おみやげ探しも楽しみの一つとなった。広報部長ともども、たくさん買い込んだことは言うまでもない。山口県人として、岩崎家から勝が受けた御厚志へのささやかなお返しの意味も込めて。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

もう一人の鉄道の父「佐藤政養」を追って~山形県遊佐町

遊佐(ゆざ)町---日本百名山に名を連ねる「鳥海山」を擁し、山形県最Yuza北端に ある人口約1万7千人の美しい田園の町である。ここに、もう一人の鉄道の父「佐藤政養(さとうまさよし)」のふるさとがある。

佐藤政養は初代「鉄道助」を務めた人物で、そのときの「鉄道頭」が井上勝。ともに日本初の鉄道、新橋~横浜間の開通に力を尽くした同志なのだ。政養は、砲術や天文、測量、航海術などを学んでおり、幕末、神奈川開港から横浜開港に方針が変わったのは、政養が勝海舟を介して幕府を動かしたからだと言われている。その後、その横浜港から、勝はイギリスへと密航の旅に出るのである。

「遊佐町の吹浦という駅には、佐藤政養のりっぱな銅像があるそうだ。しかも、毎年10月14日の鉄道の日には、子孫の方や町内、JRの関係者、地区の小学生が参加して”政養祭”という顕彰のためのお祭りが開かれている。」---例によって、ノムラン会の広報部長が仕入れた足で稼いだ情報だ。情報源は国土交通省の鉄道局長。「遊佐町の取組を学び、遊佐町と何かタイアップができれば」・・・半年越しの思いを実現し、2月4日、ついに、広報部長とともに遊佐町へ旅立った。

鉄道の父に対して面目ないが、遊佐町までは空路を選択した。東京から庄内空港まで約1時間。(余談だが、羽田空港で乗り継いだ飛行機は、山口宇部空港から利用した飛行機で、クルーも同じであった。また、帰りに羽田空港から乗った飛行機で読んだ新聞も山形版であったことから、そういうローテーションになっているものと思われる。)庄内空港から遊佐町までは車で30分ぐらい。広報部長の友人のナイスミドルの案内で吹浦駅へ。

Douzou2吹浦(ふくら)駅前の好ポジションに、鉄道助の正装姿で、政養は堂々と立っていた。その視線の先は、おそらく東京であろう。これまた、鉄道や鉄道人を見守り続けているのだ。吹浦駅は羽越本線にある簡易委託駅。羽越本線Ekiは新潟の新津駅から秋田駅までを結んでいる。SLやまぐち号のC571号機も昭和29年頃には羽越本線で活躍していたようだ。銅像そばには、佐藤政養の説明や年譜、さらには元国鉄総裁の十合信二氏から寄せられた言葉もあり、佐藤政養という人物が何者なのか、なぜここに銅像があるのかということが一目で理解できる。今度、東京駅に戻ってくる「井上勝」像にも、こうした配慮が欲しいところである。

遊佐町役場では、町長さんや観光担当課、文化財保護審議会委員の方々から、いろいろな話を聞くことができた。”政養祭”は、吹浦駅に銅像が建立されたImg_1345_2昭和39年から毎年行われており、「遊佐四大祭」の一つとなっている。また、町では冊子も作って、小学生たちに町出身の偉人の学習もさせている。さらに、平成2年には生家の近くに、 地区の人によって「顕彰碑」も建てられ、町ぐるみで、政養を讃え、次世代に伝えているのだ。政養が江戸に出たのは33歳。偉業を成し遂げ56歳で病没するが、ふるさとにいた期間が長いだけに、遊佐の人とのつながりも深く、人々の心にも残っているのかもしれない。

小野寺町長は、日本青年団協議会会長も務めておられた熱血漢。少年町長、少年議会を発足させ、「次代の主役は、今だって主役」と、地域の声を全身で受け止める町長さん。山口県のこともよくご存じで、友人もいるとか。嬉しいのは「長州ファイブ」に大変興味を持っておられること。国禁を犯して海外に行き、日本を変えた若者たちに共感を覚えると言われたが、町長さんからも同じエネルギーを感じた。吉田松陰も遊佐を訪れたはずだから、どこに立ち寄り、どこに泊まったか今後調べてみたいともおっしゃっていた。

また、遊佐町の方々には、休館日にもかかわらず、国の重要文化財に指定されている漁Img_13422業王・青山留吉の旧邸をご案内していただいた。ここのガイドは、子供たちが行うこともあるということで、遊佐町ではふるさとを愛し、誇りに思うということが、とても大切にされているということが、よく分かった。

鉄道や日本を変えた人物たちをキーワードとする遊佐町との交流に大きな可能性を感じた遊佐町訪問であった。

「ゆざ、えがった。えがった。」遊佐町のみなさん、本当にありがとうございました。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ノムランのDNA

先日、埼玉県から嬉しい便りがノムラン会宛に届いた。便りの主は、井上勝を大叔父に持つ、粟屋仙吉氏の一族に当たる方で、偶然このブログを見つけて下さったそうだ。今や、子どもさんも含めて、御家族で勝ファンであり、SLファンであるというから心強い。

粟屋仙吉氏は、昭和8年に大阪天六(天神橋6丁目の通称”てんろく”)交差Img_1385点で起きた陸軍兵士と警察官のトラブルに端を発し、陸軍と警察が対立することになった「ゴーストップ事件」の処理に公正な判断力を示した、当時の大阪警察部長で、後には、大分県知事や広島市長を務めた人物である。写真は、ゴーストップ事件当時の仙吉氏。

父親が各地を転々としているため、その名のとおり仙吉氏は仙台で生まれている。また、鳥取県立第2中学校(現在の米子東高校)の卒業ということで、鳥取県の郷土の誇る人物としても紹介されているが、その出身は山口県となっている。

粟屋仙吉の父親「頴祐」氏は鉄道官吏で、頴祐氏の母親は井上勝の姉の「芳」。つまり、仙吉氏の大叔父が井上勝というわけだ。頴祐氏は、かなりの酒豪であったようで、その影響からか、仙吉氏は、生涯禁酒の誓いを立てていたそうだ。ノムラン井上勝のDNAはこんな形でも受け継がれているのだ。Img_1384

便りを下さった方は、仙吉の弟である「謙三」氏のお孫さん。その謙三氏の奥方の母親は、あの鉄道唱歌の作曲者「多梅雅(おおのうめわか)」さん(*正しくは、『その謙三氏の奥方の母親「多勝(おおのかつ)」さんの実家は、あの鉄道唱歌の作曲者「多梅雅(おおのうめわか)」氏の多家』です。訂正します。)で、今でも、親族で集まった際には鉄道唱歌を歌ったりするそうだ。鉄道つながりもここまでくると、す、すごい!

そのほか井上勝に関するエピソードもいろいろ調べて下さっていて、資料や写真もお送りいただいた。東京駅の井上勝の銅像の行く末にも気にかけていただいて、何かできることがあったら協力するという、ありがたいお言葉も頂戴している。

ノムラン会ファミリー会員第1号として、今後ともどうかよろしく。そして、ノムランなメンバー一同、心からお待ちしているので、ぜひ山口県においでませ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

玉手箱の中には・・・

Img_12942 年期の入った木製の箱。それは、まさに玉手箱であり、開けた途端、100年の歳月を遡ったのであった。

これは、山口大学の経済学部で保管さImg_1284れている「来賓記名簿」。時は明治41年4月6日。井上勝は、山口大学経済学部の前身、当時の「山口高等商業学校」を訪問していたのだ。この時、勝は66歳。その2年後に没しているから、ひょっとしたら生涯最後のふるさと入りだったかもしれない。「井上馨」や「杉孫七郎」など長州出身者の名前も並んでいるが、何ゆえの御一行様の訪問かは不明。しかし、ひときわ目立つ「井上勝」の署名。文字の大きさもそうであるが、左手で書いたかのような字体となっており、なかなか洒落た感じはないか。

ひ孫の勝重さんも嘆いていたように、井上勝関連のものは戦争で焼けてしまって、ほとんど残っていないという中で、こんなに身近なところに、井上勝の足跡を見つけることができImg_12912た感激は大きい。ノムラン会広報部長が、山口大学経済学部長の藤井大司郎先生を訪問し、たまたま、井上勝の話を持ち出した中で、先生が「そう言えば・・・」と言って見せてく ださったのが、この「来賓記名簿」である。Img_12922_2明治40年の5月8日から始まっていて貴重なお宝だ。 そういうものが、学部長の応接室に、さりげなく置いてあるのも、これまたすごい。

もうすぐ迎える、「井上勝」没後100年。井上勝が甦りつつあるような気がする。今回の発見も、偶然ではなく必然なのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

汽笛の詩

Img_12722 「汽笛の詩」という冊子を目にする機会を得た。SLやまぐち号復活10周年の記念誌だ。今から約20年前の平成元年8月に発行されたこの記念誌は、多くの人が手にとって読んだのだろう、裏表紙はボロボImg_1274ロになっていた。SLの10年間の軌跡をたどる写真と記事からなり、見ごたえ、読みごたえ十分。ついつい引き込まれて、長い時間ページをめくっていた。

今では当たり前のように、私たちに力強い雄姿をみせてくれるSLやまぐち号であるが、山口線に復活するまでには、SLというものが背負った皮肉な運命と、多くの人々の努力や熱い思いがあったことを知り、「SLやまぐち号」というものが、とても愛おしくてたまらない存在となった。

Img_1273_2

・・・SLの復活はマニアのためや単なる郷愁からではない。産業革命の原動力となった蒸気機関は人類の偉大な科学遺産。そのシンボルとして動くSLを残すことは子どもたちへの教育的価値も大きい・・・昭和53年新春、当時の国鉄、高木総裁のこの発言から、SLは、復活に向けて本格に動き始めた。

記念誌に寄せられた次の言葉も印象的だ。・・・明治5年に新橋-横浜間を走った蒸気機関車の汽笛が文明開化の汽笛なら、今日、山口線で耳にする汽笛は、私たちの21世紀への希望の汽笛である・・・

多くの人の夢と希望をのせ、この21世紀もなお走り続けてくれている「SLやまぐち号」。今一度SLと、その歴史に思いを馳せてみよう。再来年の復活30周年に向けて。

なお、復活当時は、C57号の形をした清酒「貴婦人」、「SLでおいでませ」というSLソング、それから、「SLコンパニオン」なるものも存在していたとか。これらを探し出して、可能であれば復刻してみるのもおもしろいのではないか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

銅像論議

東京駅の改修工事に伴い、井上勝の銅像が撤去されていることが、萩市の議会でも取り上げられたという話を聞いた。詳しいやりとりは不明だが、この件について、広く議論が湧きあがることは、うれしい限り。

山口県に移転したらどうかという意見もあるが、東京駅でじっと鉄道を見守っていたいというのが、井上勝の思いではないだろうか。

銅像が数奇な運命をたどっていることは前にも書いたが、今度こそ、東京駅にその安住の地を与えてあげたい。それに、井上勝の銅像は、鉄道の享受を受けている日本国民のシンボルなのだから。

まずは「東京駅に戻して欲しい」と、関係者等が一致団結して、強く主張していきたいものだ。日本の交通の要で、歴史や文化が数多く残る、天下の「東京駅」に勝の銅像があり、そこで、人々が出会い、ふれあう・・・。そんな光景が楽しみである。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

鉄道唱歌

♪汽笛一声新橋を~♪♪というフレーズは、それが鉄道唱歌という題名だとは知らずとも、誰もが一度は耳にしたことがあるものと思っていた。周りの人に聞いてみると、昭和30年代生まれの人はかろうじて、昭和40年代以降生まれの人は「何それ?」って感じだ。

昭和30年代後半生まれなのに、曲名もきちんと言える私は、家族とともに「懐かしのロディー」をよく見ていたからか、それとも一時国鉄関係の仕事をしていた祖父の影響か。

Img_0970_2

今年の「SLやまぐち号」関連のイベントでは、何度か、この鉄道唱歌がホームに流れ、リズムも軽やか、なんかいい感じで、心地よかった。

来年はイベント時だけでなく、発車メロディや車両チャイムなどに使ってほしいものだ。

ちなみに、ウィキペディアによると、鉄道唱歌は1900年に発表され、東海道編、山陽・九州編など全5集、334番からなるそうだ。作詞は、愛媛県出身の大和田建樹という人で、この人は、♪夕空晴れて、秋風吹き~♪♪の「故郷の空」の作詞をしている。(曲はスコットランド民謡)

ついでに、第2集の「山陽・九州」編を調べてみた。山口県関係の詩は、23番から30番までで、次のとおり。

23 岩国川の水上に、かかれる橋は算盤の、玉をならべし如くにて、錦帯橋と名づけたり

24 風に糸よる柳井津の、港にひびく産物は、甘露醤油に柳井縞、からき浮世の塩の味

25 出船入船たえまなき、商業繁華の三田尻は、山陽線路のをはりにて、馬関に延ばす汽車のみち

26 少しくあとに立ちかへり、徳山港を船出して、二十里ゆけば豊前なる、門司の港につきにけり

27 向の岸は馬関にて、海上わづか二十町、瀬戸内海の咽首を、しめてあつむる船の数

28 朝(あした)の帆影夕烟(ゆうけぶり)、西北さしてゆく船は、鳥も飛ばぬと音にきく 玄界灘やわたるらん

29 満ち引く汐も早鞆(はやとも)の、瀬戸と呼ばるる此海は、源平両氏の古戦場、壇ノ浦とはこれぞかし

30 世界にその名いと高き、馬関条約結びたる、春帆楼(しゅんぱんろう)の跡とひて、昔しのぶもおもしろや

Dclogo

なかなか情緒がある歌じゃないですか?観光アピール度も高い。「はじめてなのになつかしい」-なんか、このキャッチにぴったりとはまりますね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

SLやまぐち号今年のラストラン

Img_1143_211月25日、JR新山口駅では、SLやまぐち号の今年最後の運行Img_1153_2日を盛り上げるイベントが行われた。 

快晴の下、いつもにも増して熱気と歓声に包まれた1番ホーム。鉄道の父「井上勝」と、今年生誕100年となる「中Img_1159_2原中也」に見守られ、SLやまぐち号を支える機関士と車掌に花束が贈られた。 「勝」君と「中也」君は、今年何度もの登場のせいか、すっかり板についている。

名残を惜しむかのように、ひときわ高らかな汽笛を発し、鉄道唱歌に送られてC571号機は出発した。今年の運転日数は90日。延べ57,000人が乗車したというからすごい。

SL運行対策協議会では、全国のファンとの連携をもっと深める組織づくりが検討されているという。すわーッ、ノムラン会の出番か?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

勝カード

このグに何度も登場する「勝カード」とは? Img_1054_3

「SLやまぐち号70周年記念誌」、「貴婦人C571製造70周年展アンケート結果」とともに、井上勝とSLやまぐち号のPRのための三種の神器の一つである。

Photo_3れらがグッズとしてデビューしたのは今年夏。SLのイベントなどで乗車記念と Photoして配られるほか、あらゆる機会を捉えて、関係者等に配られており、多くの人々がSLやまぐち号を通じて、井上勝を再発見し、鉄道のすばらしさを再認識することができたのではないかと思われる。

「勝カード」にいたっては、ノムラン会広報部長の突撃PRで、国土交通省の鉄道局長やJR西日本の社長、JR東日本の方々など鉄道人にも手渡すことができた。また、JR上海の方やハワイ州知事も持っているという。

製造が間に合わないという事態も生じがちだが、「勝カード」は、巷で秘かなブームの予感。お問い合わせは、「山口線SL運行対策協議会」へ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

銅像の受難

Img_112411月15日、先月の鉄道の日のイベントでお世話になった井上勝重さん宅を訪問。Img_1128しばし、「勝」談義に花が咲く。 居間にある、明治天皇から下賜された馬具を撮影させてもらった。勝重さんは今、井上家の家紋を復元中だとか。

東京駅前の銅像の歴史について話していると、勝重さんが書斎から何やら持ってきてくれた。勝の銅像の受難について書かれた資料である。

それによると、東京駅開業と同時に建てられた初代銅像は、当時の写真を見ても見当たらず、場所がどこだったか不明とある。この銅像は昭和19年他の多くの銅像とともに供出され砲弾か兵器に化け、残された台座のうち、「動輪」「枕木」「つるはし」が記された一部が国鉄によって保管され、今は東日本鉄道文化財団に託されている。

鉄道関係者や鉄道出身の佐藤栄作元首相ら政財界人らが発起人となって再建された2代目銅像は、昭和34年に、当時の国鉄本社の新館と旧館の間に建てられた。(現在は丸の内オアゾというオフィスビル群&複合商業施設になっている。)しかし、わずか2年後には新館の建設工事のため駅前広場の中央付近に移され、昭和43年5月、東京地下駅の工事のため撤去され、越中島の国鉄の倉庫に保管されたとある。いつ頃、駅前広場に戻ってきたかは書いてないが、「2代目は人の目に触れた期間より倉庫暮らしの方が長い」という記述があるので、昭和53年ごろには、まだ、倉庫に眠ったままだったのかもしれない。

これほどの受難の歴史があったとは。今、勝の銅像は3度目の眠りについている。その行方にはしっかりと目を光らせておかなくては。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

鉄道博物館

10月14日の鉄道記念日に、埼玉県の大宮にオープンした「鉄道博物館」。鉄道に関わる遺産・資料を展示し、鉄道システムの変遷を時代背景等を交えながら、産業史として物語る「歴史博物館」だと聞いており、一度は見ておきたいところ。11月15日にさっそく訪れてみた。埼京線で大宮まで行き、埼玉新都市交通ニューシャトルで一駅。このImg_11352ニューシャトルは、 東北・上越新幹線に沿って走っており、車内の窓からは隣を平行して走る「はやて」や「やまびこ」が見えて、なかなかおもしろい。電車内はそんなに混んでおらず、降りた「鉄道博物館駅」も意外と閑散としている。

Img_1119_2 人の流れに従って歩いてみる。なんかどこからともなく、一点をめざして人が集まってくるという感じだ。と、目の前に長蛇の列が。平日の11時前。思いもよらなかった30分待ち。 せっかく来たんだからと我慢して並んだが入場までの待ち時間はそれほど気にはならなかった。 Img_1107_3

中にImg_1105入っていきなり目の前に飛び込んできたのが、1階フロアーの35両にも及ぶ実物の車両展示。圧巻。井上勝が万感の思いを持って見つめたであろう一号 機関車の姿もあった。写真撮影も自由、さわっても、車両内に入って弁当を食べてもOK。当時の鉄道風景を再現した展示演出が行われ、その時代の鉄道の様子が実感できるようになっている。

2階には全長75mの鉄道歴史年表があり、井上勝の記述や、今は亡き初代銅像のレプリカが展示されていた。Img_1109ミュージアムショップも身動Img_1114きできないImg_11362人で、なんとか手に入れたImg_11132のが「C571」の携帯ストラップ。 後ろ髪を引かれる思いでたった30分足らずの駆け足博物館巡りとなった。ゆっくり見るには半日はかかりそう、一日いても十分楽しめそうなところである。

広報部長をはじめノムラン会のメンバーも必見のスポット。そのうち、ツアーを組んで視察に繰り出すことも計画してみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«東京駅の「井上勝」像