志の響き合いふたたび 「井上勝」と「佐藤政養」

井上勝顕彰行事は、山形県遊佐町で毎年行われている「政養祭」を範としている。

いつの日か、我が国の鉄道発展の礎を築いた遊佐町が誇る「鉄道の助 佐藤政養」と山口県の「鉄道の頭 井上勝」が連携し合い、それぞれの地域の活性化と「鉄道を通じての存在感」の全国へのアピールを何らかの形で“コラボ”し、実現できたらと考えている。

鉄道の日の「井上勝」顕彰行事に届けられた、初代鉄道の助「佐藤政養先生顕彰会」会長からのメッセージを紹介させていただくとともに、この場を借りてお礼と引き続きの御協力をよろしくお願い申し上げます。

メッセージ

鉄道の日の本日、鉄道の父「井上勝」顕彰行事が関係する皆様のご尽力により開催されますこと誠におめでとうございます。心よりお喜び申し上げます。

激動の幕末から明治、井上勝先生は日本の近代国家建設のため遠くイギリスに渡り、大学に通う傍ら見聞をひろめ鉄道の重要性を痛感し帰国されました。「吾が生涯は鉄道を以て始まり」の言葉のとおり高い志を持ってその情熱を鉄道敷設に傾注されました。ここに、改めて井上勝先生の進取の精神とたゆまぬ実行力に敬意を表します。

わが遊佐町の出身であります佐藤政養は勝海舟のもとで近代技術を修めたのでありますが、井上勝先生の志と響きあい、そのもとで鉄道開設という日本の大事業に邁進することとなったのであります。

鉄道の父「井上勝先生」の偉業を顕彰するために記念イベントを実施するなどこれまでの取り組みに関係者皆様の思いが伝わって参りますし、本日の日本鉄道の父「井上勝」顕彰行事を契機にさらにこの思いが多くの方に伝わりますことをご祈念いたします。

鉄道開設から137年を経て、鉄道頭「井上勝先生」と鉄道助「佐藤政養」が遺した大きな足跡が結び合わせたこのご縁を大事にしながら互いに交流を深めていきますとともに、鉄道の父「井上勝」顕彰行事のご発展とご関係者の皆様のご健勝をご祈念をいたしましてお祝のメッセージといたします。

平成21年10月14日

              初代鉄道の助佐藤政養先生顕彰会会長

                     遊佐町長  時田 博機

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鉄道を愛し、鉄道と共にこの世を生きた曾祖父  「井上勝」

鉄道の日の「井上勝」顕彰行事に届けられた勝重さんからのメッセージは、実に心がこもったものであり、参加者一同は、人間味あふれる井上勝の一端に触れることができた。

ここに紹介させていただくとともに、この場を借りてお礼を申し上げます。

『井上 勝 を顕彰する会』に参集された皆様へ

この度、井上勝が一時期生活していた小鯖におきまして、ノムラン会をはじめとした有志の方々により、「井上勝を顕彰する会」が開催されるとのご一報を頂きました。本来であればそちらに赴き、ご挨拶・御礼を申し上げるべきところ、所用のため訪れることができませんことをお許し下さい。

残念ながら私たち子孫は、資料の多くを戦火により失い、井上勝の当時の面影をたどることが困難となってしまいました。しかし幸いなことに、折りにふれ、幕末から明治にかけて研究されている皆様にお教えを頂く機会が多くございました。樫部様からも、井上勝が幕末この小鯖に一時転居していたことを伺い、空白となっていた時期の事を知ることができました。

来年は井上勝没後百年という節目の年を迎え、皆様があらためて井上勝を取り上げてくださるとのこと、子孫である私どもは大変嬉しく思います。井上勝旧宅跡にお住まいの原田様には、居住していた土地を大切にお守り頂き、心より感謝申し上げます。

井上勝は派手な性格ではなく、あまり人前に出ることは好まなかったと聞いております。現場第一主義と申しますか、鉄道建設現場に出向くことが多く、家には不在がちであったため、家族、特に娘からの父親としての評判はあまりいいものではなかったようです。私が幼少のころ井上勝の長女である大叔母に会った際も、大叔母からはあまり話を聞くことができず、井上勝の人となりを知ることができませんでした。しかし家族を愛し、仲間や鉄道に携わってくださった人夫の方々とのふれあいを大切にしていたことに間違いはないでしょう。鉄道を愛し、鉄道と共にこの世を生きた井上勝を顕彰してくださることを、子孫として大変嬉しく思い、重ねて感謝申し上げます。私も折りを見つけ、井上勝ゆかりの地を訪ね歩きたいと思っております。

末筆ながら、ノムラン会を始めここにご参集下さいました皆様方のますますのご発展、ご健勝を心よりお祈り申し上げます。

                                                           井上 勝重

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愛すべき、我らがノムラン

Img_1752_2先日、コメントを寄せてくださった中村建治さん著の「東海道線誕生物語~鉄道の父・井上勝の生涯」(イカロス出版)をシルバーウィーク中に読破。タイトルの通り、日本の大動脈「東海道線」の誕生までのプロセスと、その建設にひたむきに取り組んだ、我が郷土の先輩、ノムランこと「井上勝」の生涯を追った力作。120年以上も前の明治時代に思いを馳せながら一気に読み終えてしまった。

東海道線の建設に当たっては、東海道ルートか中山道ルートかで、紆余曲折があったことは知っていた。しかし、中山道ルートで計画されようとしていたものを東海道ルートに変更するに当たっては、最終的には、勝の勇断、そして決める以上は何としても押し通すという強い信念があったということが分かった。しかも、この決定には、山県有朋、伊藤博文という、同じく郷土の先輩が大きく関わっているというもの興味深い。

また、東京~京都~神戸間がつながった当初は、琵琶湖では、鉄道連絡船で乗り継いでいたとは。赤字覚悟で、その連絡船の運行を引き受けたのは、これまた長州人の藤田伝三郎。

現場主義に徹した数々のエピソード、大切な鉄道開業の日には、なぜか大雨等に見舞われ、それをボヤいていたという人間味あふれる一面に触れると、勝が身近に思えてくる。

---「愛すべき、我らがノムラン」

この本には、ノムラン会会長が先日行った大津駅の話も、当然登場しており、大津駅の初代駅長は、高橋善一。初代の長浜駅長にもなったと書いてある。

さて、もうすぐ鉄道の日。来年の勝没後100年を前に、今年も、何か一発やりますか?会長!

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勝、吹浦駅に降り立つ。

10月14日、山口大学で行われた若者たちによる「鉄道の日」ミニ研修会の1時間後、「湧水の里」山形県の遊佐町では、地元の人や関係者が見守る中、恒例の佐藤政養祭が行われた。場所は、もちろん、吹浦(ふくら)駅の「佐藤政養像」前。

この記念祭で、今年は、わがノムラン会からのメッセージが読み上げられた。国内初の鉄道建設にともに力を合わせた、鉄道の助「佐藤政養」と鉄道の頭「井上勝」の130年ぶりの再会だ。

その様子は、ありがたいことに、遊佐町のホームページに掲Hp_2載されており、遊佐と山口の友好を深め、鉄道の祖の功績を讃える一日となったとある。(トップページの右サイドバーにある「広報取材日記」をクリック)

写真を見ると、遊佐も秋晴れ。新しい記念日を祝うかのように。

ノムラン会代表が心を込めて送ったメッセージの全文は、こちら。「zenbun.pdf」をダウンロード 

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10月14日は鉄道の日

約半年ぶりの記事。半年御無沙汰の編集長をお許しあれ!アクセス解析で、この間も多くのアクセスをいただいたことを知り、すっかり恐縮するとともに、ノムラン会員の結束の強さをあらためて痛感。

さて、10月14日の鉄道の日、山形県遊佐町と山口県山口市で記念イベントが開催される。

山形県遊佐町と言えば、もう一人の鉄道の父「佐藤政養」の出身地。ノムラン会広報部長とともに訪れ、小野寺町長さんはじめ、地元の方々の温かいもてなしに、「遊佐えがった、えがった」と大感激したのは、今年の2月のこと。

14日には、恒例の初代鉄道助佐藤政養先生の顕彰記念祭、第45回政養祭が開催され、小野寺町長さんの御配慮で、ノムラン会もメッセージという形で参加できることになった。100年以上の時空を越えて、佐藤政養と井上勝が再会する記念の日となりそうだ。

Img_0533_2 こちら山口県でもミニイベントが予定されている。場所は、山口大学の「長州五傑記念碑」広場、時間は12時10分から30分間。(正門入って30m過ぎて右)

山口大学経済学部観光政策学科の学生さんたちが、山口県の観光振興と「井上勝」「SLやまぐち号」について熱く語ってくれるという。例によって、ノムラン会代表(注:ノムラン会広報部長はノムラン会業務に専念できる環境となり、晴れて代表に就任。おかげで会員も大幅に拡大した。)の思いつき企画であるが、ぶっつけ本番でもそれなりのものになるのが、神業とも言えるこの人の力。

天気が悪かったらどうするんだろう?という心配は残るが、ノムラン会会員のみなさん、14日のお昼は、集え!山口大学に。       

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小岩井農場の「井」は井上勝の「井」

東北地方に足を踏み入れたからには、井上勝ゆかりの「小岩井農場」の地を踏まずには帰れない。遊佐訪問の翌日の2月5日、岩手県の小岩井農場へ向かった。吹浦駅から秋田駅まで行き、そこから秋田新幹線で約1時間半で盛岡駅に到着。さらに車で30分程度の雫石に小岩井農場はある。

”雪が多くてたどり着けないんじゃないか””いやそもそも冬期は閉鎖しているんじゃないか”というガセネタに脅えながらも突撃。小岩井農場は「岩手雪まつり」のまっ最中で、かなり人がいた。メインスポットまきば園も、オフシーズンは入園無料である。

Iriguti標高2,038メートルの岩手県最高峰の岩手山をバックにした広大な銀世界は実に美しい。緑の草原と動物たちが戯れる春から夏の光景もきっとすばらしいに違いない。この地に農場をつくろうと考えた、井上勝の気持ちがよくわかった。が、やはり、少し寒い。

小岩井農場は、明治24年に、野義真(日本鉄道会社副社長)、崎彌之助(三菱社長)、そして、鉄道庁長官の上勝の三人の手で開設された。鉄道局長時代、視察に訪れた井上勝が、当時の県知事に「これまで鉄道開発のために田畑をつぶしてきた埋め合わせとして、この広大な荒地を開墾して農場をつくりたい」と打ち明けたことが発端となったという。まきば園のパンフレットには「開設者」の一人として井上勝も紹介されていた。

レンガサイロなど創業時の面影が残る上丸牛舎の一画に、展示資料館があった。この建Img_1353物は、明治39年建築の事務所を改築したもので、創業者の理想や百年Tennji_2以上のこの農場での生産の営みが紹介されている。もちろん「井上勝」の展示もあった。

少し離れた管理本部を訪れ、展示資料館の館長に話を聞く。館長の野沢さんは、TYS入江さん制作の「日本鉄道の父 井上勝の挑戦!」にも登場していた方。鉄道農場の開設は3人の手によるが、場主は井上勝だったそうだ。岩崎からは、年1万円、10年間出資を受けるという約束であったが、思っImg_1374 たような利益が出ず、8年で岩崎家に手渡したということだ。もっとも、岩崎家は出資金をどうこう言うつもりはなかったようだが、勝の実直な性格がそうさせたのだろう。

勝は耕作中心の経営を行っていたようだ。昭和32年に岩崎家の久彌が農場を継承してからは、酪農へと移したという。後で入手した情報だが、その実質的な運営を任されたのは、下総御料牧場長であった新山荘輔で、彼もまた山口県出身。小岩井農場と山口県のつながりは、かなり深いのだ。Img_1373

経営から手を引いた後も、勝は農場を何度も訪れている。明治41年に皇太子殿下をお迎えするために農場を訪れたという記録があり、これが最後の訪問だったのではないかと野沢館長。その年は、山口県にも来ており、2年後にロンドンで亡くなる前に、奇しくも思い出深い各地を訪れていたということか。

何か小さいことでもいいから、小岩井農場と山口県のタイアップができないものか。展示資料館では、4月から9月まで「百年前の小岩井農場」という企画展が開催されるようだし、そのタイミングで山口県からも何か発信できたらとも思う。

ちなみに、まきば園の売店には乳製品をはじめ、多彩な小岩井ブランドの品々があり、おみやげ探しも楽しみの一つとなった。広報部長ともども、たくさん買い込んだことは言うまでもない。山口県人として、岩崎家から勝が受けた御厚志へのささやかなお返しの意味も込めて。

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もう一人の鉄道の父「佐藤政養」を追って~山形県遊佐町

遊佐(ゆざ)町---日本百名山に名を連ねる「鳥海山」を擁し、山形県最Yuza北端に ある人口約1万7千人の美しい田園の町である。ここに、もう一人の鉄道の父「佐藤政養(さとうまさよし)」のふるさとがある。

佐藤政養は初代「鉄道助」を務めた人物で、そのときの「鉄道頭」が井上勝。ともに日本初の鉄道、新橋~横浜間の開通に力を尽くした同志なのだ。政養は、砲術や天文、測量、航海術などを学んでおり、幕末、神奈川開港から横浜開港に方針が変わったのは、政養が勝海舟を介して幕府を動かしたからだと言われている。その後、その横浜港から、勝はイギリスへと密航の旅に出るのである。

「遊佐町の吹浦という駅には、佐藤政養のりっぱな銅像があるそうだ。しかも、毎年10月14日の鉄道の日には、子孫の方や町内、JRの関係者、地区の小学生が参加して”政養祭”という顕彰のためのお祭りが開かれている。」---例によって、ノムラン会の広報部長が仕入れた足で稼いだ情報だ。情報源は国土交通省の鉄道局長。「遊佐町の取組を学び、遊佐町と何かタイアップができれば」・・・半年越しの思いを実現し、2月4日、ついに、広報部長とともに遊佐町へ旅立った。

鉄道の父に対して面目ないが、遊佐町までは空路を選択した。東京から庄内空港まで約1時間。(余談だが、羽田空港で乗り継いだ飛行機は、山口宇部空港から利用した飛行機で、クルーも同じであった。また、帰りに羽田空港から乗った飛行機で読んだ新聞も山形版であったことから、そういうローテーションになっているものと思われる。)庄内空港から遊佐町までは車で30分ぐらい。広報部長の友人のナイスミドルの案内で吹浦駅へ。

Douzou2吹浦(ふくら)駅前の好ポジションに、鉄道助の正装姿で、政養は堂々と立っていた。その視線の先は、おそらく東京であろう。これまた、鉄道や鉄道人を見守り続けているのだ。吹浦駅は羽越本線にある簡易委託駅。羽越本線Ekiは新潟の新津駅から秋田駅までを結んでいる。SLやまぐち号のC571号機も昭和29年頃には羽越本線で活躍していたようだ。銅像そばには、佐藤政養の説明や年譜、さらには元国鉄総裁の十合信二氏から寄せられた言葉もあり、佐藤政養という人物が何者なのか、なぜここに銅像があるのかということが一目で理解できる。今度、東京駅に戻ってくる「井上勝」像にも、こうした配慮が欲しいところである。

遊佐町役場では、町長さんや観光担当課、文化財保護審議会委員の方々から、いろいろな話を聞くことができた。”政養祭”は、吹浦駅に銅像が建立されたImg_1345_2昭和39年から毎年行われており、「遊佐四大祭」の一つとなっている。また、町では冊子も作って、小学生たちに町出身の偉人の学習もさせている。さらに、平成2年には生家の近くに、 地区の人によって「顕彰碑」も建てられ、町ぐるみで、政養を讃え、次世代に伝えているのだ。政養が江戸に出たのは33歳。偉業を成し遂げ56歳で病没するが、ふるさとにいた期間が長いだけに、遊佐の人とのつながりも深く、人々の心にも残っているのかもしれない。

小野寺町長は、日本青年団協議会会長も務めておられた熱血漢。少年町長、少年議会を発足させ、「次代の主役は、今だって主役」と、地域の声を全身で受け止める町長さん。山口県のこともよくご存じで、友人もいるとか。嬉しいのは「長州ファイブ」に大変興味を持っておられること。国禁を犯して海外に行き、日本を変えた若者たちに共感を覚えると言われたが、町長さんからも同じエネルギーを感じた。吉田松陰も遊佐を訪れたはずだから、どこに立ち寄り、どこに泊まったか今後調べてみたいともおっしゃっていた。

また、遊佐町の方々には、休館日にもかかわらず、国の重要文化財に指定されている漁Img_13422業王・青山留吉の旧邸をご案内していただいた。ここのガイドは、子供たちが行うこともあるということで、遊佐町ではふるさとを愛し、誇りに思うということが、とても大切にされているということが、よく分かった。

鉄道や日本を変えた人物たちをキーワードとする遊佐町との交流に大きな可能性を感じた遊佐町訪問であった。

「ゆざ、えがった。えがった。」遊佐町のみなさん、本当にありがとうございました。

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ノムランのDNA

先日、埼玉県から嬉しい便りがノムラン会宛に届いた。便りの主は、井上勝を大叔父に持つ、粟屋仙吉氏の一族に当たる方で、偶然このブログを見つけて下さったそうだ。今や、子どもさんも含めて、御家族で勝ファンであり、SLファンであるというから心強い。

粟屋仙吉氏は、昭和8年に大阪天六(天神橋6丁目の通称”てんろく”)交差Img_1385点で起きた陸軍兵士と警察官のトラブルに端を発し、陸軍と警察が対立することになった「ゴーストップ事件」の処理に公正な判断力を示した、当時の大阪警察部長で、後には、大分県知事や広島市長を務めた人物である。写真は、ゴーストップ事件当時の仙吉氏。

父親が各地を転々としているため、その名のとおり仙吉氏は仙台で生まれている。また、鳥取県立第2中学校(現在の米子東高校)の卒業ということで、鳥取県の郷土の誇る人物としても紹介されているが、その出身は山口県となっている。

粟屋仙吉の父親「頴祐」氏は鉄道官吏で、頴祐氏の母親は井上勝の姉の「芳」。つまり、仙吉氏の大叔父が井上勝というわけだ。頴祐氏は、かなりの酒豪であったようで、その影響からか、仙吉氏は、生涯禁酒の誓いを立てていたそうだ。ノムラン井上勝のDNAはこんな形でも受け継がれているのだ。Img_1384

便りを下さった方は、仙吉の弟である「謙三」氏のお孫さん。その謙三氏の奥方の母親は、あの鉄道唱歌の作曲者「多梅雅(おおのうめわか)」さん(*正しくは、『その謙三氏の奥方の母親「多勝(おおのかつ)」さんの実家は、あの鉄道唱歌の作曲者「多梅雅(おおのうめわか)」氏の多家』です。訂正します。)で、今でも、親族で集まった際には鉄道唱歌を歌ったりするそうだ。鉄道つながりもここまでくると、す、すごい!

そのほか井上勝に関するエピソードもいろいろ調べて下さっていて、資料や写真もお送りいただいた。東京駅の井上勝の銅像の行く末にも気にかけていただいて、何かできることがあったら協力するという、ありがたいお言葉も頂戴している。

ノムラン会ファミリー会員第1号として、今後ともどうかよろしく。そして、ノムランなメンバー一同、心からお待ちしているので、ぜひ山口県においでませ。

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玉手箱の中には・・・

Img_12942 年期の入った木製の箱。それは、まさに玉手箱であり、開けた途端、100年の歳月を遡ったのであった。

これは、山口大学の経済学部で保管さImg_1284れている「来賓記名簿」。時は明治41年4月6日。井上勝は、山口大学経済学部の前身、当時の「山口高等商業学校」を訪問していたのだ。この時、勝は66歳。その2年後に没しているから、ひょっとしたら生涯最後のふるさと入りだったかもしれない。「井上馨」や「杉孫七郎」など長州出身者の名前も並んでいるが、何ゆえの御一行様の訪問かは不明。しかし、ひときわ目立つ「井上勝」の署名。文字の大きさもそうであるが、左手で書いたかのような字体となっており、なかなか洒落た感じはないか。

ひ孫の勝重さんも嘆いていたように、井上勝関連のものは戦争で焼けてしまって、ほとんど残っていないという中で、こんなに身近なところに、井上勝の足跡を見つけることができImg_12912た感激は大きい。ノムラン会広報部長が、山口大学経済学部長の藤井大司郎先生を訪問し、たまたま、井上勝の話を持ち出した中で、先生が「そう言えば・・・」と言って見せてく ださったのが、この「来賓記名簿」である。Img_12922_2明治40年の5月8日から始まっていて貴重なお宝だ。 そういうものが、学部長の応接室に、さりげなく置いてあるのも、これまたすごい。

もうすぐ迎える、「井上勝」没後100年。井上勝が甦りつつあるような気がする。今回の発見も、偶然ではなく必然なのである。

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銅像論議

東京駅の改修工事に伴い、井上勝の銅像が撤去されていることが、萩市の議会でも取り上げられたという話を聞いた。詳しいやりとりは不明だが、この件について、広く議論が湧きあがることは、うれしい限り。

山口県に移転したらどうかという意見もあるが、東京駅でじっと鉄道を見守っていたいというのが、井上勝の思いではないだろうか。

銅像が数奇な運命をたどっていることは前にも書いたが、今度こそ、東京駅にその安住の地を与えてあげたい。それに、井上勝の銅像は、鉄道の享受を受けている日本国民のシンボルなのだから。

まずは「東京駅に戻して欲しい」と、関係者等が一致団結して、強く主張していきたいものだ。日本の交通の要で、歴史や文化が数多く残る、天下の「東京駅」に勝の銅像があり、そこで、人々が出会い、ふれあう・・・。そんな光景が楽しみである。

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勝カード

このグに何度も登場する「勝カード」とは? Img_1054_3

「SLやまぐち号70周年記念誌」、「貴婦人C571製造70周年展アンケート結果」とともに、井上勝とSLやまぐち号のPRのための三種の神器の一つである。

Photo_3れらがグッズとしてデビューしたのは今年夏。SLのイベントなどで乗車記念と Photoして配られるほか、あらゆる機会を捉えて、関係者等に配られており、多くの人々がSLやまぐち号を通じて、井上勝を再発見し、鉄道のすばらしさを再認識することができたのではないかと思われる。

「勝カード」にいたっては、ノムラン会広報部長の突撃PRで、国土交通省の鉄道局長やJR西日本の社長、JR東日本の方々など鉄道人にも手渡すことができた。また、JR上海の方やハワイ州知事も持っているという。

製造が間に合わないという事態も生じがちだが、「勝カード」は、巷で秘かなブームの予感。お問い合わせは、「山口線SL運行対策協議会」へ。

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銅像の受難

Img_112411月15日、先月の鉄道の日のイベントでお世話になった井上勝重さん宅を訪問。Img_1128しばし、「勝」談義に花が咲く。 居間にある、明治天皇から下賜された馬具を撮影させてもらった。勝重さんは今、井上家の家紋を復元中だとか。

東京駅前の銅像の歴史について話していると、勝重さんが書斎から何やら持ってきてくれた。勝の銅像の受難について書かれた資料である。

それによると、東京駅開業と同時に建てられた初代銅像は、当時の写真を見ても見当たらず、場所がどこだったか不明とある。この銅像は昭和19年他の多くの銅像とともに供出され砲弾か兵器に化け、残された台座のうち、「動輪」「枕木」「つるはし」が記された一部が国鉄によって保管され、今は東日本鉄道文化財団に託されている。

鉄道関係者や鉄道出身の佐藤栄作元首相ら政財界人らが発起人となって再建された2代目銅像は、昭和34年に、当時の国鉄本社の新館と旧館の間に建てられた。(現在は丸の内オアゾというオフィスビル群&複合商業施設になっている。)しかし、わずか2年後には新館の建設工事のため駅前広場の中央付近に移され、昭和43年5月、東京地下駅の工事のため撤去され、越中島の国鉄の倉庫に保管されたとある。いつ頃、駅前広場に戻ってきたかは書いてないが、「2代目は人の目に触れた期間より倉庫暮らしの方が長い」という記述があるので、昭和53年ごろには、まだ、倉庫に眠ったままだったのかもしれない。

これほどの受難の歴史があったとは。今、勝の銅像は3度目の眠りについている。その行方にはしっかりと目を光らせておかなくては。

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東京駅の「井上勝」像

お引越し中の東京駅の「井上勝」像の行く末が気になり、11月14日・15日の上京用務に併せ、ノムラン会広報部長とともに東京駅へ。駅舎復原の工事がかなり本格化している「丸の内」口には、確かに、勝像はなかった。

勝像がない東京駅なんて・・・。Img_1129

・・・日本鉄道の父「井上勝」像は、開業当時から東京駅に建ち、供出や一時撤去の不運に見まわれながらも、静かに鉄道を見守り、鉄道人を激励し、多くの鉄道ファンに愛されてきた。同時に、山口県人のみならず、鉄道の享受を受けた多くの日本国民のシンボルと言っても過言ではなく、復原工事完成の暁には、鉄道の父にふさわしい東京駅のしかるべき場所に、また、東京駅を訪れる多くの人々が鉄道や鉄道の歴史に思いを馳せることができるような配慮をもって、再設置してほしい・・・という内容のお願い文書を対応してくれた副駅長に渡した。

東京駅の副駅長には、我々の思いをしっかりと受け止めていただけたようで、「東京都との調整などいろいろあるが、鉄道人としても、そのような方向で検討していきたい」とありがたいお言葉をいただいた。

2008年の明治維新140年、2009年の山口線SL復活30周年、2010年の勝没後100年と数々のエポックを刻んだ後、2012年、勝の銅像が東京駅に復活することを信じたい。

初代「勝」銅像   2代目「勝」銅像  Photo_4  

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井上勝の銅像のお引越し

Img_09082 東京駅の復原工事に伴い、丸の内中央口にあった「井上勝」の銅像が消えた。

なんでも、台座は三重県で、像は千葉県で大切に保管されているらしい。

昭和34年(1959)に再建されてから、約50年間じっと鉄道を見守り続けてきたわけだから、少しは休養も必要かも?

大正3年(1914)に建てられた、初代勝銅像も戦時中に金属として供出され、こちらは帰らぬものとなってしまったと聞いており、井上勝の銅像は、なかなか安住させてもらえない運命にあるのか。

ならば、いっそのことふるさとの山口県に帰った方がいいのではないかとも思うが、やはり、鉄道の父として鉄道を見守るべき場所は、東京駅であろう。

工事が終了する2011年ごろには、また戻ってくるのであろうが、どのようなロケーションになるのか楽しみでもある。

従来は、銅像は目立つが、台座には「正二位勲一等子爵井上勝君像」とあるだけで、何をした人なのかさっぱりわからなかったので、説明プレートを置くなど、もう少し気の利いた方法を期待したいところ。

なんたって、我々の生活には欠かせない鉄道の父なのだから・・・。

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「井上勝」の足跡を訪ねて(東京編)

「井上勝」のひ孫にあたる井上勝重さんに会いに上京

まずは、井上勝の墓前に手を合わせようと、勝が眠る品川の東海寺へ向かう。「だいたいこの辺り」とタクシーから降りたが、全く分からない。通行人に道を尋ねるが、あまりの暑さで意Img_0901識が朦朧としているのか要領を得ず。駆け込んだ事業所の初老のビジネスマンの教えに従って、「近代硝子工業発祥之地碑」を目印に左に折れると墓地の 入口があった。入口には、「しながわの史跡めぐり」と題したやや古めのマップが貼ってあり、「井上勝」も紹介されている。 墓地内には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓などもあるが、写真で何度も見ていた「井上勝」の墓はすぐに分かった。新幹線や在来線の電車など、「鉄道」が最もよく展望できる場所にあり、「勝」本人が、この地に眠ることを望んだ理由がよく分かる。

いよいよ、井上邸へ。 奥様に迎えられリビングに通され、いきなり目に入ってきたのが、ガラスケースに入った「馬具」。『勝は、馬が好きだったようで、これは、明治天皇からいただいたものだそうです。』と奥様。明治26年に勝が鉄道庁長官を辞したときに下賜された御料馬具らしい。しばらくして勝重氏が登場。

・・・勝に関するものは、ほとんど戦争で焼けちゃって残っていない。他の人から情報をもらい、「そうだったのか」と初めて聞くことが多くて、逆に感謝している(山口市小鯖に居を構えていたというのも初耳という様子)。父(勝英氏)から、勝のことをあまり聞いていないし、父もその父からあまり聞いていなかったのだろう。こんなことなら、もっと勝のことをよく聞いておくんだったと後悔している。勝のものが何か残っていないのかと聞かれるのが一番つらい。勝の写真も、本人があまり好きでなかったのかほとんどない。とにかく暇があれば、現場に行っていたというから、家族で過ごす時間も少なかったのだろう、家族と撮影したものも、ほとんどない・・・

長州ファイブの酒や焼酎のことはすでに御存知で、おいでませ山口館で買って、知人に配ったりもしたとのこと。「上田廣」著・「井上勝銅像を再建する会」版の「“鉄道事始め”井上勝 伝」の復刻版を頂戴する。

・・・これが父の最後の仕事であった。勝のことを気に掛けていただくことは、大変ありがたたいし、自分が末裔であることは間違いなく、協力は惜しまないので、遠慮なく言ってほしい。父も生きていたら喜んだに違いない。・・・

子爵一族とうことで、かなり緊張したが、とても気さくで、笑顔の素敵な方だった。山口県にも何度か来られているとのことだが、「ぜひまた山口県へ」とお願いして、井上家を後にした。

次に、東京駅の井上勝像へ。2代目「井上公銅像」は、駅舎を背に、皇居の方を見つめて建っていた。まずは、偉大な郷土の大先輩と記念撮影。周りには工事用の柵があり、近づいImg_09082てよく見ることができなかったが、台座前面には「子爵 井上勝君」というような文字しかなく、後面にも建立関係者の氏名など漢字が並ぶのみ。 一般の人が見たら、「井上勝」が何者なのか、なぜここに銅像が建っているか分からないだろうということで、さっそく、東京駅に事情を聞いてみると、現在駅舎を改装(昔どおりに復元)・整備中で2010年度末終了予定だとか。せめて、「鉄道の父」という文言ぐらいは表示する方が親切だし、鉄道や、その歴史に思いを馳せてもらう意味で、JRにとってもいいことなので、前向きに検討してほしい旨をお願いした。(できれば、山口県出身という文言も入れてほしいところであるが。)

次の目的地は、旧新橋停車場。明治5年に開業した旧新橋停車場の駅舎を、当時と同じ場所に、開業当時の外観で再現し、平成15年4月オープンした。何度もここを通っているはずなのImg_0912に、その存在を知らなかったのは不覚。駅舎内部にあるのが、鉄道や汐留の歴史などを紹介する「鉄道歴史展示室」。 小さいがなかなか見ごたえあり。「映像の記憶」コーナーでは、鉄道開業の歴史的な経緯などを伝える映像をプラズマディスプレイによって見ることができる。この中には、井上勝の紹介を詳細に行っているバージョンもあり、「いずれ、このDVDを手に入れよう」と思ったのであった。

少々ハードながら鉄道三昧の一日。“山口県人はもとより、全国の人々に井上勝のことをもっと知ってもらい、鉄道の父「井上勝」を現代に甦らせたい”、そんな思いや決意がますます高まった日帰りの旅であった。

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井上勝の足跡を訪ねて(山口市小鯖編)

「井上勝の屋敷跡が山口市の下小鯖にある」という情報を入手した。

映画「長州ファイブ」により、井上勝に魅せられて以降、勝に関する、いろいろな情報に積極的にアクセスしてきたが、そんな話は初耳である。

職場の”勝オタク”とともに、さっそく追跡開始。

彼のネットワークを駆使し、文書館から、それらしい資料をゲットした。

しかし、山口市下小鯖の『藪ケ尻』説と、『芦谷』説の二つがあり、一体どちらが本当なのか分からない。

山口市役所の小鯖支所で詳しい話を聞いいてみると、どうやら『芦谷』説が有力らしい。

この地区では、平成12年頃つくった「まちづくりに向けた調査の報告書」中に、SLのイラストとともに「鉄道の父・井上勝公旧宅跡」という表示をしている。

この地区では、「井上勝公」はかなり知られた存在なのだ。

また、井上家の財産を譲り受けたとされる原田家も今もそこにあることが分かった。

何はさておき、『芦谷』へ。国道262号を曲がったところにある「小鯖地ビール」から、5分少々で、「井上屋敷」へ通じる道の分岐点に到着。左に曲がってまっすぐ進むが、道幅が狭くなり、ついには行き止まりに。Img_0843

車を止めて、近くで草引き中の女性に尋ねてみる。「うーん今は何もないと思う。昔は、『鎮守様』があったような気がするけど。よかったら行ってみますか?」言葉は少ないが、とても親切。が、おもむろに取り出した草刈り鎌2本。「そんなに荒れたとこなのか???」 我々は、恐る恐る後に従う。

何年か前、市の方で林道を整備し、現在は、立ち入り禁止にしているとか。確かに人が頻繁に入ったような形跡はなく、車の輪立ちがかろうじて残っているぐらい。通り道を覆う草Img_0837 を刈りながら前に進む。途中には、猪用のワナもあった。

話をしているうちに、この女性は、例の原田家の現在の当主「隆志氏」の母上であるということが分かった。昭和23年に原田家に嫁いだが、そのとき、すでに、目立った遺構はなかったように記憶しているとか。ただし、井上勝公の話はよく聞いていたとのこと。「ここからが井上屋敷の敷地」と原田さん。Img_0836

馬場もあったようで、かなり広大な土地であったことがうかがえる。やはり、鎮守様も残っておらず。ただ、菖蒲の花が咲いていた。これが、「棯畑史」にも書かれていた「萩かどこかから持ってきたノハナショウブ」か?Img_0840_2 主亡きあと150年もの間、毎年、ひっそりと咲き続けているのかも。やはり、藩庁からかなり離れたこの山奥に、なぜ、井上家があったのかは不思議である。

藩庁が山口に移されたとき、萩から多くの役人も移ってこなければならなかったが、急に多くの家屋敷が用意できるわけでもなく、桂小五郎や高杉晋作、伊藤博文などは「十朋亭」など民家を宿泊所としていたという。こうした当時の住宅事情のせいかもしれないが、井上家が、わざわざこの地に居を構えたのには何か別の理由があったのかもしれない。

翌日、原田家の現当主の隆志氏に電話。これまで、井上屋敷を訪ねて誰かが来たということはなかったと思う。井上勝に関するものは今は何も残っていないが、子供のころ、りっぱな「鞍」があったことを記憶しているとのことであった。

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